「絵画を扱った作品」の第五弾は、玉岡かおる『天涯の船』(上下巻、新潮文庫、2006年)です。浮世絵約8000点、西洋美術約3000点から構成される「松方コレクション」は、神戸の川崎造船所(現川崎重工)の初代社長で、莫大な富を築き上げた松方幸次郎が大正初期から昭和初期にかけて私財を投入して収集したコレクションです。その構築には、幸次郎の愛したある女性の役割が不可欠だったという考え方を軸に、男女の数奇な運命を描き上げた作品に仕上げられたのが本書。作品の中に登場する桜賀光次郎のモデルは松方幸次郎、ミサオのモデルはグーデンホーフ光子です。
[おもしろさ] 大コレクションが後世に残されるための諸条件
美術品のコレクションが成立するためには、実に多くの条件が絡み合うことが不可欠。もし、①高価な作品を購入するための莫大な資金を持った人(光次郎)、②有力な画家や画商と深い信頼関係を有した人(ミサオ)、③美術品に対して深い見識と眼力を持った水先案内人(ミサオの知人)、④戦時中に収集したコレクションをフランスで守り抜いた人(ミサオの妹の娘・あや乃とその夫)、⑤戦後フランス政府に敵性資産として没収されたコレクションの一部の返還に尽力した人(吉田茂)などの運命的な出会い・絆・協力関係がなければ、後世に受け継がれ、いまのお金に換算すると「数百億円にも上る」資金を投入して収集されたコレクションなど夢のまた夢で終わっていたことでしょう。加えて、時代状況も必須の要因でした。第一に、貴族たちに独占されていた芸術の扉が、経済的なゆとりを持ち始めた資本家たちにも開放され、彼らが美術市場に本格的に参入できるように変わってきたこと。第二に、儲ければ事業税や法人税でごっそり国に持っていかれる以前の時代であったことが幸いしたこと。本書の魅力は、それらの諸条件が光次郎とミサオの運命的な愛を通じて実現されたことを浮き彫りにした点です。
[あらすじ] 「運命の糸」と「神様のいたずら」
明治17年、姫路藩で代々家老を務めた酒井家の姫君・酒井三佐緒の替え玉としてアメリカ行きの船に乗せられた12歳のミサオ。船酔いと乳母のお勝による陰湿で底なしの虐待に苦しめられます。そこから逃げるには海に飛び込むしかないと考えたある夜、薩摩出身の桜賀光次郎と出会います。同じ船には、旧摂津三田藩主九鬼隆義公の娘・九鬼矩子(のちに光次郎の妻となり、夫のコレクションのための資金繰りに苦労する)も乗り合わせていました。その後、ミサオは、留学先であるワシントンの学校にもなじみ、教養を身に着け美しく成長していきます。やがて、光次郎とも再会するのですが、オーストリア帝国の名家の血を引く、同じ大学で学んでいた親友のマクシミリアン・レオガンドルフ(マックス)もミサオに惹かれていきます。光次郎がたった一言「好きです」と言えなかったため、ミサオは、9年後の明治26年に、マックス(マクシミリアン・ヒンメルヴァンド子爵。同家は、芸術家のパトロンとして尽力してきた経緯がある)のもとに嫁いでいきます。やがて、ヨーロッパが戦乱に揺れるなか、ミサオの人生も波乱に富んだものになっていきます。30歳になったミサオは、運命の糸で結ばれた光次郎と12年ぶりに再会。すでに実業家として成功していた彼は、文明国になるためには、芸術が必要という信念を抱くようになっていました。ミサオは、彼に寄り添い、美術品の収集の手助けをすることに。しかし、それが成就するには、「神様のいたずら」としか言いようのない、非常に高い壁を幾度も超えていかなければならかったのです。