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『不当買収』 - カネ儲けの手段か、能力不足の経営者に対する警告か? 

「企業の合併・買収を扱った作品」の第四弾は、江上剛『不当買収』(講談社、2006年)です。かつて、日本企業の多くは、安定株主という名の株式持ち合い制度により、他の企業による買収から身を守られていました。敵対的買収が一般化しなかった理由はそこにあります。しかし、そのような制度が破綻したいま、企業の合併・買収もごく普通に行われるようになってきています。投資ファンドに勤める主人公の会社が買収のターゲットにしたのは、恋人の父親が経営する中堅メーカー。「仕事を取るのか、それとも恋人を取るのか」で揺れ動く主人公の苦悩が浮き彫りにされていきます。が、単なるカネ儲けの手段として終始するのか、それとも経営能力に乏しく、利益を株主に還元しない経営者に対する警告になりえるのかを考え合わせてくれる正真正銘の「M&Aドラマ」です。巻末にまとめられた「M&A用語集」も有益です。

 

[おもしろさ] 狙われた企業の経営者の揺れ動く心情

この本のおもしろさは、TOB(株式公開買付け)をめぐる両陣営の駆け引き・攻防のみならず、買収の対象になった企業の経営者の揺れ動く心の変化が克明に描かれている点にあります。①懸命に働き、倒産寸前の小さな企業を中堅企業に育て上げたことで、自分の会社経営に対して持っている絶対的な自信、②カネ儲けの手段としか考えていない連中に自社の株式が買い占められていくことに対する憤り、③メインバンクからはアドバイザーを推薦されたものの、心底信用できていないという心情、④社長がなんとか切り抜けてくれるだろうとしか思っておらず、腰の定まらず、頼りにならない役員たちの存在、なかには株価の上昇を歓迎している役員もいることなど、先の読めない展開に翻弄される経営者の姿が浮き彫りにされていきます。ちなみに、狙われた企業は、①大型増資を行い、買収側の持株比率を下げること、②「クラウン・ジュエル」(=会社の資産を売却したり分離したりして魅力のない会社にしてしまうこと)、③「リバース・ベア・ハグ」(=買収相手と交渉して、高い価格に吊り上げ、買収する気持ちを萎えさせること)、④「パックマン・ディフェンス」(=逆買収)、⑤「ホワイト・ナイト」(=被買収会社の意向を受けて、友好的に買い取ってくれる第三者の企業のこと)、⑥「ゴールデン・パラシュート」(=敵対的買収によって買収された企業の取締役が解任などになる場合、巨額の退職金などを支給されることをあらかじめ締結しておくこと)、⑦「ゴーイング・プライベート」(=被買収会社の株式を上場廃止に持ち込むこと)など、多彩な防衛策についても紹介されています。

 

[あらすじ] 投資ファンドVS中堅メーカー

大手のワールド・フィナンシャル・バンクに勤務する松下遼と榎本彩は、恋人同士。彩の父親は、将来、自分が経営する中堅メーカーであるエノモト加工(東証二部に上場。無借金経営を誇っている「染の専門会社」)の後継者に彼女がなることを願っています。他方、遼は、ユナイテッド・スイス・バンクの東京の責任者で、日本におけるM&Aの権威となっている大沢幹生の誘いを受け、同行が立ち上げる投資ファンド「ユニバーサル・パートナーズ(UP)」に転職します。そのファンドは、日本の「持たれあい風土」に風穴を開けるという大沢の夢を実現させるために創業されたものです。「経営者が経営を私物化して、外部の意見を受け入れればもっと株主のためになるようなケースを選んで買収をしていく」敵対的買収を専門にするという。大沢の新しいターゲットになったのは、なんとエノモト加工でした。彩を取るのか、それとも大沢=仕事を取るのか? 皮肉なめぐりあわせに、松下の苦悩が深刻化していきます! 

 

不当買収 (講談社文庫)

不当買収 (講談社文庫)