経済小説イチケンブログ

経済小説案内人が切り開く経済小説の世界

『小説 盛田昭夫学校』 - ソニーを育んだベンチャー精神

「電機産業を扱った作品」の第二弾は、江波戸哲夫『小説 盛田昭夫学校』(上下巻、プレジデント社、2005年)。井深大とともに、前身となる「東京通信工業」を創設し、巨大企業ソニーを築き上げた人物・盛田昭夫とその後継者たちの活躍を実名で描いたドキュメンタリー作品。新たに好奇心を刺激する獲物=製品に出会うと、それまで取り組んでいたものに対する関心を急速に失ってしまう井深。それに対して、盛田の方は、一つの商品を営業的に大きく育てることに強い関心を持ち、絶えず新しいアイデアを生み出し、製品化に向けた試行錯誤を繰り返したのです。二人のコラボなくしては、今日のソニーは成立していなかったことでしょう。ソニーの発展が、その当時の常識的な考え方から逸脱した、稀有な「ベンチャー精神」に基き、いかにしてひとつひとつ積み重ねられていったのかがよくわかるでしょう。

 

[おもしろさ] ネガティブ一色の反対論に抗して

この本の読みどころは、新製品にチャレンジするときに発せられる周囲の人たちの「ネガティブな反応・物言い」、それを克服していこうとするリーダーたちの強い意志、さらには創意工夫に満ち、かつ具体的な克服プロセスを知ることができる点にあります。その点を確認できる代表的な事例は、ウォークマン誕生秘話ではないでしょうか。イヤフォンで音楽を楽しむ習慣など、まったくなかった時代のこと。のちに世界中で大ヒットしたその商品に関して、「人類史上初めての音楽の楽しみ方」を実現させると熱弁をふるう盛田に対しては、「録音機能のつかない再生だけの機械が売れるはずはない」といった反対の声が、関係者の間でも非常に強かったのです。それゆえ、あの手この手で事態を好転させていくという盛田たちの努力と執念には、改めて感服されられるのではないでしょうか! 盛田が言います。「君たちはこれまでの常識にはないというが、新商品というのはみんなそういうものなんだ。これを新しいファッションとして一つの流行にまでもっていけば売れるんだよ」。

 

[あらすじ] 「SONYブランドは譲れませんよ」

東京通信工業の前身「東京通信研究所」は1945年10月1日、終戦からわずか2か月後に、井深大を中心とした数人の仲間によって設立されました。最初の拠点は、東京日本橋の百貨店「白木屋」の三階にある「配電室」。半年後の46年5月、「東京通信工業」(東通工)と生まれ変わり、初代社長は井深の岳父・前田多門(元文部大臣)、専務に井深、常務に盛田が就いていました。盛田家は、300年も前から知多半島小鈴谷(現・常滑市)で造り酒を営み、昭夫はその十五代目でした。会社として取り組んだ最初の製品は、テープレコーダーでした。ただ、最初のモデルは、重さが45キロもあり、ほとんど売れなかったのです。次の課題は、その小型化の実現でした。その際、開発を担当する木原信敏に対して、井深が気楽な口調で命令します。熱海にある別荘にスタッフを引き連れていき、缶詰状態で開発を進め、「完成するまで帰ってくるな」と。こうして、重さは三分の一15キロに小さくなった改良型のテープレコーダーが完成。その後、アメリカ市場に進出することをめざして、ソニーSONY)というブランド名を確立させ、トランジスタラジオ、ウォークマンと、次々にヒット商品を世に送り出していったのです!「日本製品は安かろう悪かろう」というイメージが定着していたアメリカ市場での売り込みがうまく行かず苦戦を強いられていたなか、なんと10万台もの購入契約が提案されました。しかし、その提案を断ったのです。なぜならば、SONYのブランドではなく、ブローバーの名前で販売するという提案だったからです。「SONYブランドは譲れませんよ」。自社の技術に対する高い信頼性と自信をうかがい知ることができる興味深いエピソードと言えるでしょう。

 

小説 盛田昭夫学校(上) (講談社文庫)

小説 盛田昭夫学校(上) (講談社文庫)

 
小説 盛田昭夫学校(下) (講談社文庫)

小説 盛田昭夫学校(下) (講談社文庫)