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『風の向こうに駆け抜けろ』 - 馬・旗手・調教師・厩務員・馬主が織りなす世界

「いけぇええええええ!」 瑞穂が叫ぶ。最後の直線に入る。伸びる、伸びる、伸びる! まるで空を滑走しているようだ。これだ。この感覚だ……。全身が総毛立ち、狂おしいほどに、激情が込み上げる……。完全に溶け合い、ひとつの翼となった旗手の瑞穂と馬のフィッシュアイズ! ゴール前の大接戦に、競馬場の大声援と大興奮……! 

後述する『風の向こうに駆け抜けろ』に出てくる、大歓声のなか最後の力を振り絞って疾走する馬と旗手を点描してみました。ファンにはたまらない大興奮の瞬間なのでは。レースというものを実際に見たことがない私でさえ、読み返すごとに大きな感動と力が湧き起こるのですから。ただ、疾走する馬・旗手の背後には、馬主・調教師・厩舎員・競馬場関係者といった人たちの生活・ビジネス・思い入れ・夢などが複雑に入り乱れた--「純粋な夢や目標」と「ドロドロとした人間たちの欲望」が混在する--世界があることもまた事実です。今回は、競馬界の実像を描いた二つの作品を紹介します。

「競馬を扱った作品」の第一弾は、古内一絵『風の向こうに駆け抜けろ』(小学館文庫、2017年)です。地方競馬でデビューを果たした女性騎手・芦原瑞穂が主人公。日本中央競馬会JRA)が主催する中央競馬地方自治体が主催する地方競馬との間に存在する「格段の差」(制度も免許も資格も注目度もまったく異なる)、競馬で生計を立てている人たちの仕事、馬と人間との「心・気持ち」の交流、レース運びなど、競馬のことをまったく知らない人にも、競馬の魅力がよくわかるように仕上げられています。競馬界を知るには格好の入門書でもあります。2021年12月18日・25日にNHKで放映されたドラマ『風の向こうに駆け抜けろ』(前・後編)の原作です。主演は平手友梨奈さん。

 

[おもしろさ] 競馬の醍醐味が凝縮! 

本書の魅力は、なんと言っても、競馬というものの醍醐味が余すところなく描かれている点にあります。また、①6歳のときに、父が働いていた牧場で初めて馬に乗って以来の瑞穂の馬に対する愛情の深さ、②馬・旗手・調教師・厩務員・馬主などがすべて「心」を通わせ、ひとつになってこそ、初めて勝利という栄冠を獲得できること、③旗手としての瑞穂の成長のプロセスなどが描かれています。

 

[あらすじ] くじけそうになりながらも、大きな夢に向かって

那須塩原市地方競馬教養センターで二年間の訓練を終えた旗手候補生は、修了課程を兼ねた騎手免許取得試験に挑みます。それにパスした者だけが、それぞれの所属競馬場でプロのジャッキーとしてデビューすることになります。主人公の芦原瑞穂を受け入れてくれたのは広島県の鈴田競馬場。所属先は、廃業寸前の弱小厩舎である緑川厩舎でした。調教師は緑川光司。花形旗手でしたが、いまでは人生に絶望しています。無愛想な厩務員の木崎誠。かつて事件を起こし、心に傷ができたことで声が出せなくなっています。ほかの二名の厩舎員も含め、周りにいるのは、人生を諦めかけていた人たちばかり。使い物にならなくなった馬や人が流れ着く「藻屑の漂流先」と揶揄されるほどに、寂れた厩舎だったのです。しかも、「だから女は」「女は駄目」という言葉に示されるように、厩舎の内外で、彼女は女性に対する偏見と差別、パワハラなどで苦しみ続けるのです。しかし、くじけそうになりながらも、彼女には強い思いがありました。「プロになる。活躍して、活躍して--。証明したいものがある」。経営状況が厳しい地方競馬場という環境下にありながらも、真摯な努力と情熱で中央競馬桜花賞をめざしてはばたいていきます。