いまの一万円札を彩るのは、福沢諭吉の肖像です。ところが、2024年に発行される新一万円札では渋沢栄一(1980~1931年)に代わります。2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公。現代日本の経済的な基盤を創り上げた人物として広く知られています。数々の偉業を達成した栄一。彼は、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市)の農家に生まれました。青年期には、過激な尊王攘夷主義者。実際に高崎城を襲撃して乗っ取ったうえ、さらには横浜の町を焼き払うといった計画まで立てた人物です。そのような人間が、なぜ、またどのようにして「日本資本主義の父」と称されるようになったのでしょうか? その経緯は実におもしろく、興味の尽きないエピソードの連続です。それだけではありません。彼の考え方や行動には、いまを生きる人々にも非常に参考にできる点がたくさんあります。今回は、同じく渋沢栄一の生き様を描きつつも、それぞれにユニークな作品を二つ紹介したいと思います。
「渋沢栄一を扱った作品」の第一弾は、津本陽『小説 渋沢栄一』(上下巻、幻冬舎文庫、2007年)。幾度となく死に直面しつつも、九死に一生を得た渋沢栄一。その波瀾に富んだ全生涯が時系列的に描かれています。幕末から明治・大正を経て昭和の初期まで、日本の政治・社会・経済が辿った道を回顧することができる格好の作品でもあります。
[おもしろさ] 挑み、実現させたことの数々
日本経済の基礎づくりに対して、渋沢栄一はどのような貢献をしたのでしょうか? 具体例を挙げましょう。誕生したばかりの明治政府の大蔵官僚としての在任期間は、1年8カ月。しかし、全国測量、度量衡の改正、新通貨を円とする貨幣制度、鉄道施設案、諸官庁建築、会計に複式簿記を用いる簿記法の整備など、租税制度、土地制度、殖産興業に関する160件にも及ぶ新制度の取り決めを行っています。超人的かつ獅子奮迅の頑張りとしか言いようがありません。下野したあとは、第一国立銀行頭取に就任したり、株式取引所の運営に関わったり、商法会議所の会頭を務めたりしています。さらには、東京瓦斯、東京石川島造船所、帝国ホテルなどの会長、大日本麦酒、日本郵船、東京海上保険などの取締役、日本興業銀行、浅野セメントなどの監査役を歴任。500以上もの企業の設立や経営に携わったのです。ただ、栄一が実業界でそれほどまでに多大な業績を残したのは、財産や栄達のためではありません。ひとえに近代国家日本の構築が目的だったのです。本書の最大の特色は、そうした彼の活動・貢献がどのような経緯のもとでなされたのかを明らかにしている点にあります。また、徳川(一橋)慶喜、西郷隆盛、大隈重信、伊藤博文、井上薫、大久保利通、三野村利左衛門(三井組の大番頭)、岩崎弥太郎(三菱商会創業者)といった歴史上の人物と、栄一はどのような距離感を保ったのか? 大いに楽しめるのではないでしょうか。
[あらすじ] 過激な尊王攘夷主義者から一橋慶喜の有能な家臣へ
天保11年(1840年)、武蔵国血洗島で、藍の事業に注力していた豪農・市郎右衛門の長男として生まれた栄一。従兄の漢学者・尾高淳忠(通称新五郎)の指導のもと、勉強に励みました。剣術にも熱心に取り組んでいました。19歳のとき、尾高新五郎の妹・千代と結婚。読書・剣術・農作業・藍の商売に精を出す、そんな青年だったのです。ところが、ペリー来航以降、時代は幕末動乱期に突入。そうした中、尊王攘夷志士たちとの交流を通して、攘夷運動に目覚め、倒幕運動に加わっていきます。攘夷を全うするためには、「喜んで命を捨てるつもり」になっていたのです。69名の同志で高崎城を乗っ取ったうえ、横浜の町を焼き討ちするという計画を立案。準備を整えるものの、実行の直前に中止を余儀なくされます。その後の身の振り方を懸念する栄一の前に現れたのが、一橋慶喜の信頼厚きブレーン・平岡円四郎。まさに、栄一の運命を大転換させた出会いでした。栄一を「有為の青年」とみなしていた平岡の勧めで、栄一は一橋家に仕官。その後、慶喜の弟・徳川昭武・民部公子とともにパリに赴き、ヨーロッパ文明の最前線を目の当たりにします。1年7カ月にも及んだヨーロッパ滞在。それこそが、近代国家日本を作るためには、なにが必要なのかを、栄一が心の底から理解する絶好のチャンスとなったのです。帰国は、徳川の時代に終わりを告げた明治元年。慶喜は、駿河で70万石を与えられてはいたものの、謹慎中でした。栄一は、駿河に赴き、フランスで学んだことを実践すべく、最初の試みとして「多くの人々から資本を調達できる合本組織(株式会社)」による「商法会所」(銀行業と商業を兼営。のちに常平倉に名称変更)を創設します。ところが、大隈重信に説得され、生まれたばかりの維新政府の下、大蔵官僚として活躍することに……。