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『海近旅館』 - 省力化 + サービスの充実 ⇒ 旅館の立て直し

コロナ禍で、人の移動が大きく制限され、深刻な打撃を受けた宿泊業界。政府が旅行代金を補助する全国旅行支援を始めたのが、2022年10月。それ以降、日本人の延べ宿泊者数は大きく増加しています。ところが、多くの従業員が辞めてしまったことで、今度は深刻な労働力不足に。そもそも、宿泊業で働く一般労働者の給与水準は全産業平均と比べると2割程度低く、年間ボーナスも三分の一程度。「省力化・合理化を図りながらも、創意・工夫によって顧客満足度を高めていく」という、宿泊業界に課せられた課題。観光客が回復しているなか、これまで以上に火急を要する問題になっているのです。元来、「旅館というものは、思っていた以上に人手が要る。合理化しようとすれば、それだけサービスが手薄になる」。そういう業界です。では、省力化・合理化を図り、経営基盤を強固にしながらも、サービスを充実させ、顧客のニーズに応えていくことは、果たして可能なのか? また、どのようにすれば、可能になるのか? 今回は、そうした課題を念頭におきつつ、二つの作品を通して、旅館の立て直し・活性化のあり方と、お客さまのもてなし方・接し方について考えてみたいと思います。いずれの作品の主人公も、大手の旅館に押されて四苦八苦している小規模旅館の女将です。

 

「旅館の女将を扱った作品」の第一弾は、柏井壽『海近旅館』(小学館文庫、2020年)。静岡の伊東にある小旅館「海近旅館」が舞台。名女将だった母を失ったことで、自ら女将になり、旅館の立て直し・活性化をめざす海野美咲の奮闘記。試行錯誤の繰り返しを通して、少しずつ方向性が見通せるようになるまでの困難な道のりが描写。女将のお仕事・苦労・喜びが凝縮されています! 

 

[おもしろさ] 旧態依然の考え方や思い込み

「経費の削減」と「サービスの充実」。一見すると相反するように思われる二つの課題を、バランスよく両立させながらクリアしていく。旅館を運営する側の旧態依然の考え方や思い込み(例えば、「高級食材を出せば客が喜ぶ」という思い込み。「いくらいい魚を仕入れているからといって、お造り、塩焼き、煮付けばっかりだと」飽きてしまうのに、気が付かない板長)を改善していく。心配ばかりしてしまいがちな女将の悩みの種を解消できるようなアドバイスを授ける。本書の魅力は、それらのプロセスを浮き彫りにしている点にあります。

 

[あらすじ] 精一杯おもてなす! 心配のし過ぎは無用

静岡の伊東にある海近旅館。海の眺めがすばらしい! が、設備は古く、温泉があるわけでもない。名女将だった母の房子のもとでは、それなりに健闘していました。母の亡き後、「自分の手で、家族と一緒になんとか立て直したい」という思いで女将になった海野美咲。手ごたえのない日々を過ごし、自分の不甲斐なさにも嫌気を感じています。板長である父の源治は、魚料理に腕をふるってはいるものの、気力を失いつつあります。「自分に旅館業は向いていない」と思っている兄の恵も、嫌々業務に携わっている有様。二人とも旧態依然とした旅館にどっぷりつかり、美咲の提言やアイデアには聞く耳を持とうとしないのです。ところが、思い悩む美咲の前に流れの料理人・智也が出現。料理の評価について心配ばかりしている美咲に対し、「味覚は人それぞれですから。万人に向く料理なんて無理ですよ」、「心を込めて作らないといけませんが、寿司を出すからと言っても、銀座の寿司屋を真似る必要はありません」、いろんなお客さんが来られるので、「いちいち気にしていたら旅館を続けることなんかできませんよ」、「精いっぱいのもてなしをしたかどうか。悔いさえなければそれでいいじゃないですか」等々、励ましてくれる智也。新たな展開の始まりです。