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『没落ピアノ先生。』 - 天才的ピアニストがピアノ教師に

厚生労働省が定めている職業分類によりますと、日本にある職種の数は約1万8,000種類を超えるようです。驚きですね。これだけあると、職種を聞いても、業務内容をイメージできないケースは非常に多いのではないでしょうか。さらに言えば、たとえよく耳にする職種であっても、そこで働いている人のリアルな苦労や喜びなどは、なかなかわかるものではありません。そうした情報の空白の一部を埋めてくれるものに、「お仕事小説」があります。それは、単に表面的な業務のあれこれにとどまらず、働いている人の内面まで掘り下げて、仕事に対する理解を深めてくれるものになっています。今回は、いろいろな仕事を描いた作品を四つ選び、俎上に載せてみたいと思います。

「お仕事いろいろ」のテーマで紹介される作品の第一弾は、さくまゆうこ『没落ピアノ先生。』(富士見L文庫、2018年)です。かつて天才的なピアニストと言われた阿刀敬。経済的事情で、やむなくピアノ教室を始めることに。「知っているのは音楽だけ」。世間のことは、ほとんど知らない彼のこと、到底うまく運営されていくようには思われません。そんな彼には、なにかにつけ相談相手になってくれる、従妹の阿刀楓がいました。T藝大付属音楽学校の二年生で、ピアノを専攻しています。新米ピアノ教師としての敬の悪戦苦闘が浮き彫りにされていきます。

 

[おもしろさ] 「生徒を選ぶ」のではなく、「生徒に選ばれる」道! 

本書のおもしろさは、世間知らずの敬がどのようにして生徒を集めるのか、集まった子どもたちに音楽やピアノの魅力をいかにして伝えようとするのかという点の描写にあります。彼のようなキャリアのある演奏家であれば、「演奏家志望の学生かプロの演奏家を選りすぐって弟子にする」道を選ぶのが普通だったのかもしれません。でも、敬が決めたのは、「音大生に限らず、幅広く教えていく」というものでした。前者だと、「生徒をどう選ぶのか」ということが優先されます。他方、後者だと「生徒に選ばれる」ことが重視されるのです。彼の経歴や才能を考えると、後者の方が、はるかに前途多難に思えます。が、きっとそういうことさえ理解しないまま、より困難な道を選んだのでしょうね。ただ、敬は、「教師は生徒を絶望させてはいけない」という信念の持ち主。困難にぶつかっても、なんとか突破口を見出していくのです。

 

[あらすじ] 音楽に興味がない生徒とどう向き合うのか? 

国立T藝術大学、同大学院を専攻し、ドイツの音楽大学に留学した阿刀敬27歳。ドイツ正統派音楽を学び、ついに由緒ある劇場でのソロリサイタルが決まった矢先、父親が他界。帰国した敬を待ち受けていたのは、父が残した莫大な借金でした。彼の父親は、一代で大手商社を築き上げた人物。留学資金も演奏活動資金も、二つ返事で出してくれたのです。「金のことは気にするな。お前はお前の目標だけを追え。追って、必ずモノにしろ」。それが口癖でした。ところが、彼の死去で、もはや留学やら、演奏活動やら、甘いことを言っているわけにはいかなくなりました。生活のために働かなければならなくなった彼は、借金を返済した後に残されたお金を工面して、「下町のお化け屋敷」と噂されている築50年の物件を購入。「彼が愛用してきたグランドピアノより安い」価格でした。そこで、「あとうピアノきょうしつ」を始めることに。しかしながら、レッスン希望者はごくわずか。そのうえ、アニメに夢中の双子の兄弟とか、お笑い芸人志望の女の子など、最初にやってきたのは、およそ音楽に興味がない子供たちだったのです……。果たして、敬はそうした生徒たちとどのように向き合っていくのでしょうか!