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『海に降る』 - 潜水調査船パイロットが見る深海のリアル

「お仕事いろいろ」というテーマで紹介される作品の第三弾は、朱野帰子『海に降る』(幻冬舎文庫、2015年)。有人潜水調査船「しんかい6500」のパイロットをめざす訓練生・天谷深雪の夢と挫折が描写。生き物がたくさんいるのは、広い海のたった5%。残りの95%は深海と呼ばれる暗闇の世界。どんな生き物がいるのか、ほとんどわかっていません。「深海とは地球最後のフロンティアなのです」。ただ、浅海で死んだプランクトンや魚の死骸が、まるで雪のように深海に降りそそぎ、きれいな光景をつくり上げています。潜水調査船の建造に関わった技術研究者の父・北里厚志が、娘に「深雪」という名を付けたのは、そんな「マリンスノー」の美しさをいつか見せてやりたいという願いが込められています。2015年10月10日~11月14日に放映された、全6話のWOWOWドラマ『海が降る』(主演は有村架純さん、出演は井上芳雄さん)の原作。海を研究するための国内随一の機関である「独立行政法人海洋研究開発機構JAMSTEC)」のスタッフ(研究者、技術者、潜水調査船のパイロット、職員)たちの仕事を描いたお仕事小説。ちなみに、世界における深海のパイロットは40人前後なのですが、そのうち20人が日本人なのです。

 

[おもしろさ] 深海に生きる生物の不思議

あなたは、日本の海洋面積が世界第六位であることをご存じですか? そうです! 日本は海洋大国なのです。それだけではありません。日本列島はまた、あらゆるタイプの海に囲まれるという稀有な環境下に置かれ、世界有数の生物多様性に恵まれた領域です。浅海に生息する生き物は、「光合成依存型生態系」の生物から成り立っています。基本的には、植物プランクトンを栄養源とする生物とそれを食べる生物なのですが、太陽光が届かない深海でも、浅海から降ってくる生物の死骸を口を開いて待っているか、お互いを食い合って生きているしかない生物も存在しているのです。しかし、深海ならではの生き物は、「化学合成生態系」に依存して生きています。例えば、深海底から湧出する熱水や冷水の周りに集まる生物がそれにあたります。深海という極限環境に適用するため、人間の感覚からすれば、想像しにくい奇妙な形の生物ばかりと言っても過言ではありません。「白い糸」と呼ばれる「糸状の浮遊物」あるいは「竜のような謎の生物」-本書のストーリー展開のなかで重要な位置を占めている-に関する「言い伝え」もまた、そうした特異な環境に対する理解があればこそと言えるわけです。本書の特色は、天谷深雪の目線から潜水調査船による活動の意義や実態を明らかにすること。と同時に、そうした深海という未知の世界の一端を垣間見ることができる点も忘れてはならないでしょう。

 

[あらすじ] 「いつか必ず帰ってくる」という父との約束

JAMSTECが誇る、最大潜航深度6500メートルという世界一の潜航能力を有する有人深海潜水調査船「しんかい6500」。その訓練潜航を明日に控えた深雪。幼いころに別れた父の言葉に導かれるように、その道に進み、今度の訓練潜航を無事に終えれば、同船の「コパイロット」(副操縦士)への昇格が確実視されるところまでこぎつけました。今回の訓練潜航は五回目なので、訓練の要領は心得ており、それほどの不安はありませんでした。しかし突然、訪ねてきた北里陽生と名乗る少年(深雪の異母弟)から「パパ、もう日本に帰ってこないと思うよ」と告げられ、茫然自失の状態に陥ります。潜航が始まっても、深雪の精神状態は平常心を保てないまま。「いつか必ず帰ってくる」と約束したはずなのに、15年経っても、アメリカから帰国しないでいる父との間に心理的な亀裂が入ってしまったことで、精神的に混乱。耐圧殻がつぶれてしまうのではないかという恐怖心から、パニックに襲われました。そのため、訓練潜航は中止。かないかけた夢は遠のいてしまいます。広報課に異動することになった深雪は、父親が深海で見た、謎に包まれた「白い糸」を追い続けている高峰浩二と出会うことになります。かくして、物語は、新たな冒険劇の展開へ……。