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『臨床真理』 - 臨床心理士としてあるべきひとつの仕事の形なのか? 

悩んだり、困ったり、不安になったりしたとき、自分の考えだけで乗り越えようとしても、うまくいかないことが多いものです。堂々巡りに陥ってしまうからです。そんなとき、頼りになるのは、だれかのアドバイス・サポートにほかなりません。それにより、自分の考えていることを客観視したり、思いもしなかった見方や対応策を見つけたりできることもまれではありません。依頼人のさまざまな悩みや不安についての相談相手になることが職業として成り立つのも、そのためです。もっとも、相談相手はプロのカウンセラーに限られるわけではありません。ときには、家族・友人・知人のみならず、ちょっとおせっかいかもしれないような「あかの他人」のアドバイスもまた、有効な場合があるのです。今回は、プロのカウンセラーである臨床心理士と、公民館などで行われている「よろず相談所」という二つの事例を紹介したいと思います。

 

「カウンセリング」を扱った作品の第一弾は、柚月裕子『臨床真理』(角川文庫、2018年)です。指定入院医療機関の国立病院に入院している精神病患者のカウンセリングを行うことになる新米臨床心理士の佐久間美帆。初めて担当することになったのは、統合失調症と診断された藤木司。人の感情が色でわかる「共感覚」の持ち主。周囲の人間は皆、彼の心の内を理解しようとせず、正常な状態ではないと考えたため、知的障害者厚生施設に入所させられていました。そんな彼が、唯一心を開いた水野彩16歳を失ったことで、暴力行為を犯し、統合失調症と診断されます。東高原病院に入院することになり、美帆と出会います。彼女が臨床心理士になる契機となったのは、4年前の出来事。救いを求めていたにもかかわらず、弟の達志の自死を防ぐことができなかったのです。美帆は、その体験を肝に銘じるとともに臨床心理士としてあるべき「理想的な」仕事の形を探るかのように、友人の警察と一緒に、彩の死の真相を調べ始めます。待ち受けていたのは、きわめて複雑な極秘の事情でした… …。著者のデビュー作。

 

[おもしろさ] 孤独と恐怖に苛まれていた患者を救う

本書のひとつ目の特色は、臨床心理士の美帆にも沈黙を続けていた司 - 実は、「誰もわかってくれない孤独と、本当に自分はおかしくなったのではないかという恐怖」との間で、長きにわたって戦い苦しんでいた - が美帆の懸命な努力によって少しずつ会話ができるようになっていくまでの長いプロセス、それを通して臨床心理士としての仕事の本質を読者に伝えようとしていること。もうひとつの魅力は、「彼を救うには彩の死の真相を突き止めなればならない」という考えに促された美帆の視点から、彩の死をめぐる複雑怪奇な事情が明らかにされていく過程と、最後に用意されているどんでん返しの描写にあります。

 

[あらすじ] 「おれ、声が見えるんだ」

舞台は、勢多町にある知的障害者入所厚生施設「公誠学園」。入所者の水野彩が左手首切創による失血状態に陥ったことで、救急車が到着する場面から、物語が始まります。第一発見者は、同学園の施設庁を務めている安藤守雄。搬送中、彩が息を引き取ったことで、司は「お前が彩を殺したんだ」と安藤を名指しで叫び、半狂乱状態に陥ります。傍にあった医療用ハサミを安藤に振りかざす司。阻止しようとする救急救命士。車内でもみ合いとなり、クルマは、反対車線に飛び出して対向車と衝突。いったん警察に拘束された後、司は、東高原病院に入院することになります。「美帆の役割は、患者が入院に至ったプロセスを理解したうえで患者の内面を探り出し、担当医である高城も報告するもの」。苦心の末、美帆はやっと司と言葉を交わすようになるのですが、「おれ、声が見えるんだ」という司のことを心底信じきれませんでした… …。でも、少しずつではあるものの、事態は進展。やがて、自死を選ばざるを得なくなった彩の死の真相究明がスタートすることになります。