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『繭と絆』 - 「日本初の工女・尾高勇」の物語

「はじめて物語」の第二弾は、植松三十里『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』(文春文庫、2019年)。富岡製糸場は、日本で最初に蒸気機関を使った大規模で、近代的な国営の製糸工場として知られています。フランス人のお雇い外国人を指導者に招いて建設されました。巨大なレンガ造りの建物、柱のない広々とした繰り場、明るい屋内。初めて見た西洋風の建物に、同時代の人たちは、さぞかし驚愕したことでしょう。2014年に世界遺産として認定され、多くの見学者が訪れる観光名所になっています。しかし、日本初の試みであったがゆえに、それが軌道に乗るまでには、さまざまな困難・難題が待ち受けていました。明治3年、渋沢栄一の義兄である尾高惇忠が、渋沢の要請で、同製糸場の初代場長に就任。そこで「工女第一号」として働くことになったのが、彼の長女である尾高勇。いうなれば「日本初の工女」なのです。ここでは、勇の目線から、明治5年~9年における黎明期の製糸場の姿を通して、日本製糸業の現状、西洋の文明に対する日本人の受けとめ方、初代工場長でもある父親や工女仲間との絆が描かれています。

 

[おもしろさ] 「赤ワインは、若い娘の生き血だ」という噂

当初、場長の尾高惇忠は、国営工場だけに、工女を募集すれば、「士族の家は喜んで娘を出す」ので、大量の応募があると、思い込んでいました。ところが、募集しても、工女はいっこうに集まりません。フランス人が飲む赤いワインは、若い娘の生き血だという噂があって、だれも工女に出したがらなかったのです。くだらない噂ではあるものの、「場長が自分の娘を出したと分かれば安心する者もいよう」と考えた彼は、自分の娘を「工女第一号」として採用せざるを得なかったのです。いったん、工女の応募が軌道に乗り始めると、今度は、工女同士の争いという新たな火種が……。次から次へと起こる問題や騒動。本書の特色は、黎明期における富岡製糸場が抱えていた問題点はどのようなものだったのか、そして、それをいかに克服しようとしたのかを明らかにしている点にあります。

 

[あらすじ] 惇忠や照には、大きな「夢」が! 

尾高勇が暮らす下手計村は、中山道深谷宿の北、利根川流域に位置しています。ごく普通の農家の娘でした。が、父の「命令」で、彼が場長を務める富岡製糸場の最初の工女として働き始めます。かくして、芯が強く、面倒見が良く、たとえ父であっても、自分の意見をしっかり主張できるという、勇の長所が現場で行かされる道が開かれることに。最初の仕事は、父に連れられて、近隣地域を訪れ、工女集めを行うというものでした。その結果、30人ほどの工女が集まり、やっと糸繰りができるようになります。しかし、まったく経験していない糸繰りの作業を行うのは、けっして簡単なことではありません。しかも、作業量は膨大です。技術を指導するフランス人との間で、意思疎通がうまく行かず、苛立ちや戸惑いが日常化。また、これまでのように、家の縁側で行う座繰りと、やり方は同じであっても、蒸気機関の動力で糸巻きが回転するため、速度が手動とは比べものにならないのです。工女たちの不満や悲鳴が噴出。さらには、工女同士での諍いが加わります。でも、勇は、柔らかな心と強固な信念を合わせて持っている場長や、かつて大奥で務めたことで威厳と迫力の兼ね備えた工女たちの監視役・照などに支えながら、難局に挑んでいきます。惇忠や照には、大きな「夢」もあったようです。「今はまだ糸繰りだけで、工女たちも手一杯だが、馴れたら学問を教えたい。針仕事や行儀見習いもさせて、それから歌のひとつも詠めるようにして、年季が明ける頃には、一人前にして家に帰してやりたいんだ」。しかしながら最後に、工場最大の危機が!