経済小説イチケンブログ

経済小説案内人が切り開く経済小説の世界

『「横浜」をつくった男』 - 高島嘉右衛門の波乱万丈

新しい年を迎えるとき、毎年、それまでにはなかった新しいことを見つけてみたいとか、なにかにチャレンジしてみたいとか、そんな気持ちにさせられます。ところが、同じような日常が繰り返されていく過程で、いつのまにか、そのような気持ちは徐々に萎えていくようです。そこで、そうした気持ちが薄れてしまわないように、せめてブログのなかでは、「はじめてのこと」に挑戦した人間を描いた作品を紹介し、新年のスタートを肝に銘じたいと思っているところです。選んだのは、三つの「はじめて物語」です。

「はじめて物語」の第一弾は、高木彬光『「横浜」をつくった男 易聖・高島嘉右衛門の生涯』(光文社文庫、2009年)。日本を代表する港町として真っ先に名前があがる横浜。ところが、いまから150年ほど前、つまり日米修好通商条約(1858年)により開港の措置が取られた頃、その地はまだ、まったくの寒村にすぎませんでした。そんな横浜が発展する礎を切り開いたのが、実業家・高島嘉右衛門。生まれたのは天保3(1832)年。83歳で天寿を全うしたのは大正3(1914)年でした。本書は、「ハマの恩人」と称される彼の波乱万丈の生涯を描いた作品です。また、高島は、易学に精通し、『高島易断』をまとめ上げた人物としても知られています。

 

[おもしろさ] 「九天九地の相」という乳児期の占い! 

高島嘉右衛門が生まれたとき、虚弱な体質を心配した父の薬師寺嘉兵衛は、占い師水野南北を招き、その将来をたずねました。すると、南北は、百万人に一人と考えられている「九天九地の相」と言ったのです。「九天九地の相」とは、いかなるものや? 「上っては天上の神仏となり、誤れば地獄の餓鬼となる。いや、このお子様なら最悪の事態は全く心配ない。おそらく一生何度かは、命もあわやこれまでかという最後の土壇場まで追い詰められることもおありだろうが、ふしぎな神仏のご加護によって、その窮地は無事に切りぬけられる。いや、禍を転じて福に変えたかと、ご自分でも舌をまかれることもおありだろう……。人なみすぐれたご長命、80まではこの南北が名前にかけて保証しよう」。南北は、そのように述べたのです。本書の特色は、その占い通り、莫大な借金を抱えたり、今流に言えば、「外国為替管理法違反」の罪で「足かけ6年」にも及ぶ監獄での生活を経験したりといった、さまざまな苦難に見舞われたものの、それらの危機をことごとく乗り越え、横浜の基礎固めにつながる事業展開の有様を克明に叙述している点にあります。彼は、日本初の鉄道となる新橋・横浜間の鉄道路線のうち、入江を埋め立て、東京から最短距離で横浜を結ぶという工事をやり遂げただけではありません。独壇場となった感のある異人館から始まり、外国公館の建設へと事業を拡げ、さらには豪華な和洋折衷の大旅館「高島屋」(明治政府の多くの要人たちの定宿となった)の経営から、横浜港の埋め立て工事や高島埠頭の建設、ガスや下水道といったインフラ整備に至るまで、数々の公共事業をも行っているのです。

 

[あらすじ] 信用の継承:薬師寺嘉兵衛から高島嘉右衛門

21歳で、江戸に飛び出した薬師寺嘉兵衛。材木商兼普請請負業遠州屋徳三郎の店で手代奉公を始め、のちに遠州屋嘉兵衛という店を出すことを許されます。分家から15年後、48歳のときに生まれたのが、清三郎(嘉右衛門の幼名)。翌年7月、嘉兵衛が出入りを許されていた盛岡南部藩勘定奉行遠州屋の店にやってきます。請われたのは、飢饉で領民60万人が生死の土壇場に追い込まれているので、救済するための妙案を考えてほしいというもの。直ちに、信用を得ていた鍋島藩江戸屋敷に駆けた嘉兵衛は、当家在庫の余剰米を一部南部藩に融通してはもらえまいかと懇願。その直後の米価の高騰、支払い金額の調達、米の運搬などに関わる難題をことごとく解決し、南部藩の窮状を救ったのです。功績に報いるため、南部藩は嘉兵衛に80石の家禄を与え、永代士分待遇という資格を授けています。またのちに、南部藩から領内の境沢鉱山の開発を委託されたりもしています。このときに強固になった南部藩鍋島藩との「信用の構築」がのちに、高島嘉右衛門の事業にも大いに生かされることを指摘しておきましょう。もっとも、鉱山開発は、思うように進みませんでした。そのうえ、江戸の店を任せていた婿の利兵衛が放蕩三昧にふけり、方々に不義理な借金を重ねていたことが発覚。嘉兵衛は病床に伏すことに。こうして、19歳の清三郎が莫大な借金とともに、二代目遠州屋嘉兵衛を継ぐことになります。裁判にも持ち込まれた巨額の借金の返済という苦しみから始まった、事業家・二代目遠州屋嘉兵衛(のちに高島嘉右衛門と改名)が辿っていく道とは?