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『約束の海』 - 自衛隊とはなにか? 未完の大作

多くの国民が「自衛隊」を意識するのは、台風や地震などの災害時に出動し、人命の救出、遺体の捜索、がれきの撤去などで高い処理能力が報道されるようなシーンではないでしょうか? しかし、「自衛隊本来の任務は、他国からの安全を脅かす行為を封じるために、抑止力を維持し、万一の場合に防御すること」にあります。そのために、隊員たちは、最新鋭の軍備を駆使して訓練に励んでいます。が、その姿は、国民にはほとんど知られていません。秘密のヴェールに包まれているのです。今回は、自衛隊の実態、隊員たちの訓練・苦労・悩み・楽しみなどを明らかにしている作品を四つ紹介します。

自衛隊を扱った作品」の第一弾は、山崎豊子『約束の海』(新潮文庫、2014年)。自衛隊とはなにか? われわれに問いかける「未完の大作」。1988年7月23日に起こった潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」との衝突事件がモデルになっています。敗戦から43年経っていたとはいえ、戦争によって受けた深い傷跡がまだ、いろいろなところで残っていました。軍事力に対するネガティブな国民感情も、依然強いものだったのです。そうした状況下、海上自衛隊の潜水艦「くにしお」が釣り船と衝突し、多数の犠牲者が出ます。その惨事を軸に、自衛隊の立場、マスコミの批判、遺族への対応、海難審判をめぐる対立などが、主に若き乗組員・花巻朔太郎二等海尉防衛大学校出身)に焦点を合わせた形で描かれています。彼の父は、真珠湾攻撃時に米軍の捕虜第一号になった旧帝国海軍少尉でした。時代の流れに翻弄された父子の生き様を描くという、三部構成の壮大なスケールの物語のうち、第一部だけが完成。それが本書です。第二部と第三部については、巻末に「シノプシス」(あらすじ)のみが示されています。

 

[おもしろさ] 潜水艦内での業務・訓練と隊員たちの仕事・日常

本書の一つ目の特色は、海上自衛隊の潜水艦がどのような態勢で動かされているのか、乗組員たちの日常業務とはいかなるものなのか、どのような訓練を行うのか、彼らのプライベートはいかなるものなのかといった、潜水艦の航行や自衛隊員の仕事・日常についての基礎的な情報が詰め込まれている点。二つ目は、1980年代末ごろにおける自衛隊に対する世間の評価・イメージがきわめて低いものであるという「現実」が随所で指摘されている点(例えば、「戦争放棄している日本」に、なぜ凄い軍艦があるのかという素朴な疑問も)。 三つ目は、衝突するまでの経緯、衝突直後の隊員たちの受け止め方、マスコミによる批判、世間の「批判・中傷」、「国民感情」、釣り船の船長の行動、彼の弁護を引き受ける弁護士の「偏った考え方」、海難審判の帰結に至るまでの流れなどを、ある意味「冷静な視点」で描き上げている点にあります。また、物語の展開と沿うようにして進んでいく、花巻朔太郎二尉とフルート奏者の小沢頼子との恋の行方が物語に彩を添えています。

 

[あらすじ] 潜水艦と遊漁船はこうして衝突した! 

海上自衛隊の最新鋭潜水艦「くにしお」は、全長76.2メートル、最大幅9.9メートル、排水量2250トンの涙滴型潜水艦。乗組員74名。その「くにしお」を含めた自衛隊の艦隊が、7月21~23日に伊豆大島の北東海域で展示訓練を実施。「東京湾は土曜日の午後とあって、貨物船やタンカー、フェリーに加え、ヨットやレジャー船など、いつにもまして混雑が激しかった」のです。ヨットとの接近を回避したあと、今度は、一隻の「漁船」が急接近。艦長の判断は素早いものではありませんでした。艦長の考えは「漁船」の前を通過するつもりでいるのだろうと推測した副長。艦長にはなにも言いませんでした。やがて、「漁船」とばかり思い込んでいた哨戒長は、初めて観光用の「遊漁船」らしいことに気づきます。客たちの中には、衝突の危機が迫っていることも知らず、「くにしお」にカメラを向けている者さえいたのです。遊漁船の方は、「くにしお」を避ける気配はありません。双方の距離があっという間に縮まってきました。初めて衝突の危険を察した筧艦長は、「短一声、面かじ(右)一杯」と命じます。ボーッと響く汽笛! 「短一声」とは、「相手船に対して、『本艦』、右に回頭しつつある」という汽笛信号。にもかかわらず、船首に「第一大和丸」と記された遊漁船の方は、思いがけず左転し、「くにしお」に向かってきたのです。こういう場合は、相手船も面舵を取るのが常識。にもかかわらず、取り舵(左回り)を取ってきたのです。のちに指摘されることなのですが、「第一大和丸」の船長は、「潜水艦がそこのけとばかりに強引に前を横切ろうとすることに、向っ腹をたて、譲ろうとしたかった」ようなのです。艦首に乗り上げた遊漁船は、赤い船体を見せて、船尾から沈んでいきます。大混乱のなか、必死の救難活動で、溺者を救出。しかし、衝突した遊漁船には40人近い人が乘っていたと聞いた幹部たちの驚愕の表情を見せることに。そして、衝突事件の衝撃は、乗組員たちが想像もつかない形で、刻一刻と膨らんでいったのです。