寒くもなく、暑くもない。一番過ごしやすい時期ですね。このようなときには、好きなものを食べてみたくなるものです。しかし、同じものを食べるとしても、その食べ物のことをよく知っている場合とまったく知らない場合とでは、味わい方にそれなりの差が出てくることもあり得るのではないでしょうか。そこで、「食べ物を扱った作品」を三回にわけて紹介したいと思います。読む前と読んだ後では、きっと変化があらわれることでしょう!
「食べ物を扱った作品」の第一弾は、博多名物「明太子」を世に広めた男の人生を描いた作品である東憲司『めんたいぴりり』(集英社文庫、2017年)です。主人公・海野俊之のモデルは「ふくや」の創業者・川原俊夫。2013年8月、テレビ西日本開局55周年記念ドラマとして放映されました。また、2019年1月には、博多華丸さんと富田靖子さんのダブル主演で公開された映画の原作です。
[おもしろさ] 釜山のミョンテから博多の辛子明太子へ
海野俊之が博多で作ろうとした「明太子」の原型は、韓国・釜山のお惣菜「ミョンテ」(漢字名は明太)。その釜山こそが、彼とその妻が生まれ育ち、そして出会った場所なのです。スケトウダラの塩漬け自体は、日本ではタラコと呼ばれ、古くからあったわけですが、ミョンテは、その卵を塩漬けにしたものをニンニクやトウガラシで味付け熟成させたもの。釜山に古くから伝わる郷土料理で、当時そこに住んでいた日本人の舌を虜にした食べ物だったのです。いまなら、韓国からミョンテを輸入して、その味を研究して作れば、ことが足りることでしょう。ところが、韓国からのお惣菜の輸入は、昭和40年の日韓国交正常化まではできなかったのです。そうした事情が、日本独自の味・辛子・明太子を作り出すことを可能にしたのです。では、主人公が作った辛子明太子が、なぜ博多の特産物になったのでしょうか? それは、彼が、たとえ商売敵であっても、明太子の作り方や作業場を見せたからです。味付けの秘訣は企業秘密だったものの、作り方をオープンにしたことで、多くの業者の参入を可能にし、地域で広く作られるようになったのです。そうした明太子に秘められた物語を本書で堪能してみてください。
[あらすじ] 初めてのメンタイは食べられるシロモノではなかった
博多の中州。今では九州一の歓楽街となっています。昭和23(1948)年の中州はまだ、戦争の傷跡が癒えない焼け野原でした。そこに市場を作るという県の入店希望者の募集が中州市場の始まりとなります。海野俊之は、用意された25軒のうちの1軒「ふくのや」で、食料品の販売を始めました。その店で、スケトウダラの卵を材料に、「メンタイ」という、日本人には未知なるお惣菜作りに挑むことになったのです。「ま、不味い!」「俊之が初めて作ったメンタイはとても食べられるシロモノではなかった」。多くのスケトウダラの卵を無駄にしたことで、スケトウダラの幻覚に謝りながらも、納得のいくメンタイの開発が続けられました。そして、ついに……。