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『メゾン刻の湯』 - まろやかな極上の文章に綴られて

「個人商店を扱った作品」の第四弾は、小野美由紀『メゾン刻の湯』(ポプラ社、2018年)。東京・下町にある明治43年創業の昔ながらの薪で湯を沸かす銭湯「刻の湯」が舞台。銭湯でのお仕事内容、業界が抱える苦境、刻の湯で暮らしている「訳ありさん」たちのそれぞれの人生模様、常連さんたちとの交流が、やさしく、そしてまろやかな極上の文章によって綴られていきます。銭湯だけに、人の心をじんわりと温め、解きほぐしてくれそうです。

 

[おもしろさ] 人の心をじんわりと温め、解きほぐす

刻の湯の営業は、15時から22時まで。毎日、昼の12時きっかりに開店の準備が始まります。かまに薪をくべ、火を起こすのが、最初の仕事。かまで摂氏80度まで温められた井戸水は、適温にまで冷やされ、水道管を通ってシャワーや湯船に供給されていきます。火を起こすと、今度は、熱すぎず、ぬるすぎない温度に湯を保つため、営業時間中は薪をくべ続けなくてはなりません。そのため、交代でかまの番をします。「ほかのガス焚きの銭湯にはない、とろりとして、上がった後にもじんわりと体の芯まで温もりの残る湯を作る」のが、刻の湯のやり方。かまの火入れが済んだら、今度は浴場の掃除です。加えて、とりわけ老人客たちが引き起こすトラブルの数々にも対応を迫られます。本書の魅力は、そうした銭湯のお仕事やその本質に触れながら、刻の湯に住み込んでいる人たちの、繊細なタッチで表現された人物描写や人生模様を楽しんでいける点にあります。「秋になったらさぁ、落ち葉集めて、焚き火しようぜ。焼き芋焼こう。冬になったら、こたつ出そう」「いいですね。そんで、春になったら、花見、行きましょう! 」そうした会話が交わされた瞬間。それは、「きらんきらんとした日差しが庭の草木を丸ごと輝かせ、この世の時間をすべて溶かして再び塗り固めたような、完璧な一瞬」だったのです! 

 

[あらすじ] 刻の湯で暮らしている人たち、それぞれの人生模様

卒業式の当日、受け取ったばかりの大学の卒業証書をゴミ箱に放り込んだ湊マヒコ。幼馴染の蝶子(内定を蹴り、愛人という「職業選択」をしたハーフ)に誘われ、銭湯「刻の湯」での仕事を手伝いながら、付属する住宅部分で暮らすことに。そこには、①毎晩男を連れ込む蝶子、②本名は誰も知らず、秘密を抱え込んでいるフリーランスのエンジニア・ゴスピ、③交通事故で右足の膝から下を失った美容室でアシスタントをしている龍くん、④設立3年目のベンチャー企業に勤めるまっつん、⑤刻の湯の持ち主であり、かつて声楽家を志望した、三代目の店主である老人の戸塚さん、⑥かつては有名なネットベンチャーの創業メンバー、いまでは引きこもり状態で刻の湯を実質的に動かしている謎の青年・アキラさんが暮らしています。リーダー格の戸塚さんやアキラさんは、いずれも包容力があり、純粋。住人たちは、不器用ながらも懸命に生きている人たちばかりです。仕事も生活スタイルも寝起きする時間帯も皆バラバラ。だから、手伝えるときに銭湯の仕事を手伝うのがこの家のルール。マヒコは、少しずつ「刻の湯」に自分の居場所を見出していくことになります。そこには、「GDP」とか「総活躍」とかいう言葉からはかけ離れた、確かな生の営みがあり、ゆったりと「血の巡る速さ」で時が流れていく世界が広がっていたからです。最盛期には1日に1000人を超えていた客数も現在では100人から120人程度。儲けは微々たるものでしかありません。なんとかして集客力を高めていかないと……! 

 

メゾン刻の湯

メゾン刻の湯