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『左手に告げるなかれ』 - スーパーで万引きを取り締まる保安士

警備業務従事者のうち、最も身近な人はというと、車で走行しているときにしばしば出くわす交通誘導員でしょうか。ドラマや映画でよく登場するのが、身辺警護に携わる「ボディガード」。ほかにも、イベントや施設など指定場所での巡回警備など、依頼主の「安全・安心を守る」警備会社の守備範囲は、非常に広いのです。それぞれの業務には、固有な専門的知識やリスク管理が必要不可欠。いずれも「懐の深さ」と「興味深さ」という点で際立った特徴を有する「仕事世界」を形作っています。今回は、警備会社を素材にした渡辺洋子さんの作品を二つ紹介したいと思います。なお、2020年12月17日~12月22日、当ブログにおいて、警備員をテーマに二つの作品を紹介しています。そちらもご覧ください。

「警備会社を扱った作品」の第一弾は、渡辺容子『左手に告げるなかれ』(講談社文庫、1999年)。スルガ警備保障に勤務する保安士の八木薔子33歳。スーパーの店内を巡回しながら万引き者を捕捉するだけではなく、レジからお金を盗む「レジ抜き」のような従業員の不正にも目を光らせるのが彼女の仕事です。新米保安士の現場教育に携わることも。保安士の業務・労苦がよくわかるお仕事小説。不倫相手の妻の殺害で容疑者のひとりと目された彼女による真犯人探しを描いたミステリーでもあります。1996年第42回江戸川乱歩賞受賞作。

 

[おもしろさ] 手先が器用で、知恵者ときてる。逃げ足も速い

万引きをする人については、「生活に困っている人とか、性格のねじ曲がって人が盗るもの」といった先入観があるかもしれません。しかし、実際には、あらゆる年齢層・所得層が手を染めているようです。なかには、「手品師のように手先が器用だし、しかも知恵者ときてる……。足が速い」と称される人も。「保安士が声をかけた途端に、中年女性が見せる形相の変化ほど恐ろしいものはない」。その文章は、万引き犯と対峙するのは、けっして半端なことではないことを物語っています。この作品の特色は、なんといっても、万引き犯のさまざまな手口と、それを捕捉しようとする保安士の駆け引きの描写にあります。また、コンビニの業務内容、スーパーバイザーの役割、コンビニを舞台にした熾烈な流通戦争の一端に触れることができることや、真犯人探しの妙味を鑑賞できる点にあります。

 

[あらすじ] 「万引きやったって因縁つけてるの? 冗談キツイよ」

「お客様、何かお忘れではありませんか……。レジで精算するのをお忘れのはずです」。勤務一日目の新米保安士・森村あかねの言葉に対して、「おとなしく聞いていれば、随分と失礼なことを言ってくれるじゃないの……。あんたさ、あたしが万引きやったって因縁つけてるの? 冗談キツイよ……」と八木薔子。そんな場面から始まる物語。場所は「コトブキ屋自由が丘店」。薔子は、本社の指示で、「保安士の卵たち」の現場教育に携わっていたのです。名門大学を卒業し、国家公務員試験の上級職に合格し、証券会社に就職したエリートであった彼女。ところが3年前、同僚の木島浩平との不倫を彼の妻祐美子に内部告発されたことで、職場を失ったばかりか、400万円もの慰謝料を支払わされました。そして今朝、木島の妻が自宅のマンションで何者かに殺害。薔子が容疑者のひとりになってしまいます。そこで、上司である板東指令長のサポートを受けて、薔子の犯人探しが開始。その際、聖書のマタイ伝第六章、山上の教訓にある「右の手でよいことをしても、左手には教えるな」という一節が殺人事件の鍵を解く言葉として登場します。殺された木島祐美子は、ボランティア活動を通して善行を施したことを自分の胸にしまっておけない性分。むしろ左手に向かってべらべら喋らずにもおれない人だったのです。さらに、追跡の過程で、祐美子の殺人事件に先駆け、わずか半月の間に、大手コンビニのチェーン店であるディン・ドンの同じブロックを受け持っていた四人のスーパーバイザーの連続変死事件が起こっていることに気が付きます。