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『定年待合室』 - 定年風景はいろいろ

自営でない限り、働いている人のほとんどが経験する定年。「十分働いたので、あとは悠々自適で過ごしたいと考えている人」がおられることでしょう。逆に「まだまだ働きたいと考えている人」もおられるのではないでしょうか。しかし、定年退職する人の大半に突きつけられているのは、そうした二者択一的な選択肢だけではありません。むしろ、希望と現実の狭間で、悩み・不安・ストレスを感じ続けているように思います。例えば、①悠々自適で生きたいと思っていても、時間に拘束されていた会社員時代の習性が抜け切れない、②せっかく自由な時間を得たのに、うまく生かせていない、あるいは、どのように使えばよいのかわからない、③働きたいけれども、これまでやってきたことを生かせる仕事には巡りあえていない……。今回は、定年を扱った三つの作品を紹介します。なお、2019年11月5日~11月19日、当ブログにおいて、定年をテーマに五つの作品を紹介しています。そちらもあわせてご覧ください。

「定年を扱った作品」の第一弾は、江波戸哲夫『定年待合室』(潮出版社、2012年)。会社でバリバリ働き、大きな成果を上げ、自信を持っていた。にもかかわらず、定年を余儀なくされた「アラカン(=60歳前後)」たち。彼らの不安定な「心の内」と「生きがい・再生への取組み」を描いた四つの話から構成されています。スナック「AYA」の常連客たちが「人助け」のために協力しあい、「オーソドックスなやり方」で依頼されたことをうまくやり遂げ、会社をつくっていきます。

 

[おもしろさ] 「どうしたらいいのか向かうべき方向が見えない」

「全くノルマのない暮らし。このままではまずい。このままいられるはずはないと思い始めているが、どうしたらいいのか向かうべき方向が見えない。生活費は……年金が出るまで十分にある。しかし悠々自適には早すぎる。かと言って再就職ができるはずもない」。本書の第一の特色は、そうしたアラカンたちの複雑な心の内が浮き彫りにされている点にあります。そして第二の特色は、アラカンたちが再起をめざすときの手法がいずれも「秘策じゃなくてオーソドックスな営業」や「フェースツーフェース」に徹しており、非常に効果的なものになっている点の指摘にあります。

 

[あらすじ] 「途方に暮れる毎日」から「生きがいを感じる毎日」へ

丸高百貨店新宿店外商部・専任部長として、日本中の富裕層の懐に飛び込み、高価な商品を売りまくった大和田宏。2年前、社長候補と目されていた専務の逆鱗に触れたことで、同じ新宿店の販売部・部付部長に異動します。そこは、「何もしなくてもいい、それが辛かったらいつ辞めてもいい、いや本当はやめて欲しいのだ」という会社の意図が見え見えの「定年待合室」。「何かの誤りにちがいない。すぐにこの人事異動は撤回される」。そう思い込んでいたものの、撤回されることはありませんでした。同じ頃、ガンにおされていた妻の百合子に寄り添うために退職の道を選択。3ケ月前、彼女が死亡すると、虚脱感に苛まれる日々を送ることに。「これからの長い時間をどうすごしたらいいのか?」 途方に暮れる毎日です。ある日のこと、以前はよく通っていたスナック「AYA」に行き、ママの深田綾子と、さらには常連客の浜村正夫、船木和夫らと話をするうちに、再び「熱い血の通った」人間として再生する機会が訪れることになります。ママから依頼された「人助け」のため、全力で動き回ったなかで呼び起こされたのです。依頼されたのは、「大型の商談が途中でキャンセルされた理由がわからない。アドバイスをしてあげて」といったものでした。こうして、AYAに集まってくる常連客たちが「人助け」を契機として、以前に作り上げた人脈を駆使しながら、それぞれの特性を発揮して依頼事をやり遂げていくストーリーが動き始めることになります。