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『黒の試走車』 - 販売合戦の趨勢を陰で演出した産業スパイの世界

「戦後自動車史を扱った作品」の第二弾は、梶山季之『黒の試走車』(角川文庫、1973年)産業スパイの暗躍を真っ正面から描いた作品です。販売合戦で勝利を収めるには、時代の流れを的確に読むことがなによりも重要な要素です。ただ、勝敗を決する条件は決してそれだけではありません。ライバル社における新車開発の進捗具合や新車の販売価格・時期などを事前に知ることができれば、宣伝・販売対策が立てやすくなり、販売競争を有利に展開できるからです。それらに関する情報はすべて極秘事項。外部に漏れないように、厳重なチェックが施されます。公表される前にライバル社の新車情報を得ることは至難の技なのです。しかしながら、当事者たちは、ただ手をこまねいて、発表されるのを待っているわけではありません。 産業スパイを含め、文字通りあらゆる手段を弄して、新型車の情報を得ようとしたのです。

 

[おもしろさ] 極秘情報を盗み出せ! 

本書のおもしろさは、産業スパイの暗躍を描き出している点に他なりません。では、彼らは、どのようにしてライバル社の極秘情報を盗み出すのでしょうか? もちろん公開されている他社の資料を分析することも重要な業務に違いないのですが、極秘に展開される方法はもっと陰湿で、ある意味奥深いものなのです。①特別契約の興信所や業界紙記者をはじめ、現役もしくは退職した社員・セールスマンなど、ありとあらゆるルートを活用する。②他社のトップたちがよく利用する料亭やクラブで働いているスタッフにコネを付け、会話の内容を聞き込む。③掃除を担当する会社を抱き込み、社内で出る大量のゴミを収集する。④ライバル社が依頼する印刷会社を探し出し、お金を渡し、会社から依頼される極秘資料をあらかじめ数部余分に印刷してもらう。⑤トップが入院する病院の看護婦に依頼し、病室と看護婦室を結ぶ通話マイクを使って病室内の会話をメモしてもらう。⑥工場内のテスト・コースに近づき、望遠カメラでコースを走るクルマを写す。⑦会議が行われているビルの向かいにあるビルから会議の模様を撮影して、発言者の口の動きを聾唖学校の教師に解読してもらう。アナログ的な手法の数々に驚かれる方がおられるかもしれませんが、当時の時代状況が映し出されています。

 

[あらすじ] 後ろめたさと嫌悪感

「タイガーの企画PR室は4人、不二の調査部第三課は16人、ナゴヤの企画室は35人の人員を擁している。その数字はそのまま、情報活動の優劣を示している」。いずれのセクションも、ライバル社の情報を収集したり、ときには他社の宣伝活動を妨害したり、自社の情報が他社に漏れることを阻止することが主要な業務。彼らの活動があるからこそ、極秘に決められたはずの新車の価格や発売日までがライバル社のトップの手中に収まるのです。また、秘密裏に開発されたはずの新車のデザインがモーターショーで発表されるライバル社の新車のなかに生かされたりすることが可能になるのです。主人公は、新設されたタイガー自動車企画PR室長の朝比奈豊。自分の業務に後ろめたさと嫌悪感を感じつつも、一人前の「諜報マン」に育っていくプロセスが描かれています。

 

黒の試走車 (光文社文庫)

黒の試走車 (光文社文庫)